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亨進が言う ‘自由と責任’ は?サンクチュアリ教会で最も重要視する2つの基本方針がある。‘自由’ と ‘責任’ である。
自由と責任に関する真のご父母様の教えを見てみよう。
先ず原理講論に記録されている自由と責任に関する内容を整理してみる。
原理講論 第二章堕落論 第五節自由と堕落 (一)自由の原理的意義、にはこう書かれている。
『自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。』
もう一度言うが、自由は原理を離れる事が出来ないし、創造目的を達成しようと責任を持つ自由ならば, 神様に喜びを返そうとする実績を追求する。
ところで亨進が言う ‘自由’ はこの様に原理的な自由であるのか。
- 原理を離れた自由はない。- 亨進は既に原理的な意味では堕落をした。
原理講論 堕落論 第二節 堕落の動機と経路 (二)霊的堕落と肉的堕落(1)霊的堕落
『 …. このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。』
つまり堕落とは、 愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れた事だと規定している。
今の亨進は本来の位置だった世界会長の立場を離れる事により既に霊的に堕落したのである。
このように霊的に堕落した亨進が主張する ‘自由’ は原理を離れた自由なのだ。彼が追求する自由をサンクチュアリ教会の食口達に教えたければ亨進自らが先ず原理圏内に帰って来なければならない。
2. 責任のない自由はない。- 亨進は真のご父母様の相続者にも代身者にもなれない。
堕落論 第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由 (一)創造原理の絶対性と完全無欠性と完全無欠性のために 、には
『創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。』
と書いてある。
即ち人間自ら責任分担を完遂し神様の創造性に似て主管主の位置に立たせようとするのが真のご父母様が教えて下さった創造原理だ。
ところが亨進は自分に与えられた責任分担だった世界会長の立場を捨て、自分勝手に自由を追 求している。与えられた責任分担と関係ない自由を追求しているのだ。
与えられた責任分担を全くなすことが出来ない子女が相続者や代身者であるなどとは原理的にあり得ない。
亨進が本当に真のご父母様の相続者や代身者ならば先ずは与えられた自分の責任分担を勝利すべきである。
3. 実績のない自由はない。- 『神様を喜ばせ得るような実績』と書かれている。即ち、亨進は神様と真のご父母様が喜ばれる実績を作らなければならない。
ところが亨進は真のお母様の心を傷付け真のお母様を失敗し堕落したバビロンの淫女、韓氏オモニと名付けている。
母親を非難する息子の言葉を見聞きしておられる神様は決して喜ぶ事が出来ない。いわんやお母様の背後で刃物を振り回す息子を見つめるお父様の心情は如何なる言葉で言い表す事が出来ようか。
神様と真のご父母様が喜ぶことが出来ないような実績を追求する自由は存在しない。
亨進は原理を離れ、責任分担を無視し、神様と真のご父母様を深い悲しみに落とす ‘自由と責任’ をサンクチュアリ教会の食口達に強要している。サタンが最も好む言葉と行動をサンクチュアリ教会の食口達に強要しているのだ。
サンクチュアリ教会を選択した食口達も自由と責任を原理的に深く理解しなければならない。亨進が言う ‘自由と責任’ は決して原理的ではない。
そして全てのサンクチュアリ教会の食口達には、こんな非原理的な ‘自由と責任’ を自分で責任持って蕩減し、原理的な位置に帰って来なければならない宿命的な道が残っている。その宿命的な道は、亨進や国進は絶対に責任を取ってくれない。
サンクチュアリ教会の食口達が死んで霊界に行き、真のお父様に「私は亨進と国進が言った通りやったのだから責任はない」と弁明しても絶対通じないのだ。
サンクチュアリ教会の食口達は手遅れになる前に原理的な自由と責任のある本然の位置に戻って来なければならない。
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